Sleep tight

ステエションズ vo,gt

2021.12.21

さむいなあ、と思う。すぐ傍に残るものはたくさんあるのに、さむいなあと思う。口元まで布団を引き上げて目を閉じたらすこし涙が出た。二十歳を越えてからさみしくて泣くことなんか無かったのに。わたしにもかわいい一面があることに驚く。じぶんのことでも知らないことというのは割と多いのだ。水を飲みたくて身体を起こすと眠っていたアルコールまで起き上がった。爪先で肌をなぞる。さむいなあ、さむいなあ。うれしかったことを思い出すとからだの中にマッチの炎みたいなあたたかさが広がった。身体を丸めてもう一度目を閉じる。長い夢をみているような感じがする。帰り道、ファミマで魯肉まんを買った。最近台湾とか韓国の食べ物が好きで、見かけると気になってしまう。ちょうど二十四時間、他人の顔をした町の隅っこで温もっていたわたしの胃の中に魯肉まんはすっぽりとおさまった。美味しかったけど昨日の晩ご飯の方がずっとずっと美味しかったな、と思った。わたしの好きなもの。

針の先端のようなうつくしさを未だ覚えている。それを越えられないと思ったことも、わたしが泣いた夜の回数も。大切にする、という表現が何となく違う気がして、ことばを探した。仕方無いなあを互いに思い合えるのは愛なのかも知れないとぼんやり考える。世界の輪郭がはっきりと鮮明に見えるようになったこと。聴き続けたうたが違う意味を持ったこと。さむさを感じるのはあたたかさを知っているからだということ。

2021.12.20

独り相撲の語る愛とやらに、笑いも出来ない。心酔している瞳を真正面から見る。瞳の奥を見てみたいと思う。ポルノグラフィティの曲に「瞳の奥をのぞかせて」という曲がある。大好きな曲だ。わたしを含めたにんげんは基本的に気持ち悪いのだから別に珍しいことではない。排除したいとも嫌いだとも思わない。正しさとか薄さとか重さとか、そういうものは各々の尺度で測るものだから、それに何かを言うつもりも無い。わたしは、それをしないだけで。

2021.12.11

ゆめをみていた。随分と都合の良いゆめを、なんどもなんどもみた。覚めなくてよかったのにとおもうこともあるけれど毎朝きちんと起きて支度をした。ほんとうに、ほんとうにたくさん泣いた。眠る前に泣くと目が腫れるので極力避けたいのだが、気付けばなみだがまぶたの隙間からじりじりと溢れて耳に着地する。目を閉じればすぐに会える、というのは嘘だと思う。早朝のあおいひかりは此処からはみれないのだ。

じぶんの気持ちに正直でありたいなあ、とおもう。何歳になってもたくさんわらってたくさん泣いて、美味しいごはんを食べたい。性に合わないと思うことや、何となく嫌な感じがすることはしたくない。言わなくても伝わる、なんて傲慢だ。伝わって欲しいことに限って全く伝わらなかったり、真逆の解釈をされてしまうこと、してしまうことはよくあることなのだと思う。感謝も、謝罪も、好意も、きちんと目を見て伝えたい。いつも覚悟を持ってさようならを言いたい。時間がなかったとしても会いたい。あたたかい布団の中でぐっすりと眠ってほしい。

2021.11.1

バンドをしよう!という話になって、学校の練習室に三人で入ったときの動画を観た。わたしはバンドを組むというよりはセッションをする、一緒に音を鳴らしてみるという感覚で入っていたけど、これが後の「ステエションズ」になっていた。わたしはアコースティックギターを持っていたし、チャーリーはハンチングを被っていたし、こたろうは懐かしいロゴのスウェットを着ていたし、うえまなはまだメンバーでは無かった。凝ったギミックもすごい照明も無かったけど、すごくすごくよかった。いつもは使わない教室に特別授業で入るような、ふゆの空気の中はじめて酔い潰れるよるのような、何となくそんな感じがした。わすれてゆけるしあわせを、わすれたくない。

2021.10.24

紅葉みたいな、いのちみたいな。わたしの瞳に、記憶に、残すことすら出来ないような閃光を、爆発を、永遠のような一瞬を、視ていた。降る轟音を聴くときに似ていた。いのちそのものを視ているようで涙が出た。できるだけ月に、空に近い場所へ登る。先輩のバンドの歌詞を思い出す。じぶんのこころに嘘はつけないのだ。スヌードを持ってきてよかった。夏も冬も寒さにやられてしまう。これからの季節、首だけは死守しないといけない。ひかりばかりを視ている。秋はまばたきくらい短く、目の前に居たのかも分からないくらいの速さで過ぎていった。冬に染まった空気を肺いっぱいに吸い込んで振り返る。わたしの世界は、シャッタースピードを遅くしたようだった。ねむることをまた好きになりたい。

2021.10.10

やさしさについて小一時間考えている。やさしさとは。考えても分からないので調べてみた。トップに「人を思いやる気持ちがある、配慮ができる、利他的である」…と出てくる。なるほど、と思う。気付くことも、寄り添うことも、適切な表現で主張をすることも、全部やさしさで、自分も相手もより良くなるように努めることもやさしさだと思う。相手にやさしくすることを意識し過ぎると、じぶんがじぶんにやさしくできなくなることもあるので厄介だ。じぶんにやさしくする、というのは場合によって相手に求めることがあるような気がする。考えても答えが出ないし、とても難しいことだなあ。難しいけれど、広く広く考えていくことも、難しいことを面白がれる力も、きっとわたしにはある。相手の為だけではなく、自分自身のためにも動くこと。利他的過ぎるのも良くないと思う。面白がって生きていきたい。そして、いまの尊さをわすれないでいたい。

FM802 MINAMI WHEEL 2021 とても楽しかった。ジングルがあるからかイベント独特の緊張感。運動会当日みたいな空気だった。初出演。観に来てくれている方が思いの外沢山居て嬉しかったな。来てくれた方々、ほんとうにありがとう。三人の真ん中で歌えるのがとてもしあわせだ。いつも「SCHOOL」で改めて聴いてくれているひとりひとりの顔をしっかりと見る。スタッフさんも。今はマスクをしているので目しか見えないが、笑っていたり、見入ってくれていたり、目を閉じていたり、何かメモをしていたり、様々だ。それぞれの聴き方で自由に聴いて貰えれば、それだけで良いと思う。わたしひとり、と、あなたひとり、としてステージに立ちたい。これまでも日によって少しずつ変えていたが、今回本読みの内容を大きく変えた。虎太朗がTwitterに載せていた文章を読んでいたら、書きたくなってしまった。「CLASSIC」の「君はそれを知ってる」の歌い方が最近微妙に変わったのはあの文章を書いてからだ。

2021.10.04

涙が出るくらいに綺麗、という体験を初めてした。人生で初めて自分の足で向かい、ひとりきりで行った海は十月なのにとても暑くて、砂浜で飲むビールが最高に美味しかった。本当は八月、遅くても九月中には行きたかったのに行けないままで、それでも今更海に向かったのには理由がある。わたしは、果てが見えないくらい大きいものを自分の足で見に行きたくて、生きていく中で発生するバグがほんの些細なことだと思えてしまうくらい、圧倒されたかったのだ。

誰にも会わないのにいつもと違う化粧をして、着る機会があまり無かったワンピースを着た。秋だが昼間の気温は三十一度。長袖だと汗だくになる。日が沈むと水辺は冷えるから、と思いユニクロのシャツと海に行くときは絶対に持っていくと決めていたエッセイ「世界は救えないけど豚の角煮は作れる」を鞄に入れた。家に鍵をかけて自転車を漕ぐ。いつもと変わらない工程なのにすこしこころが踊る。道中、車窓から見える海でさえ目を奪われてしまった。これから砂浜に足を取られたり、潮の匂いをかいだり、波の音をききながら貝殻の破片を集めたりできると思うともう涙が出そうになる。知らないところにひとりで行くということは楽しい。もっと前からしていたら良かったと思うくらいだ。そう思ってはいるものの海水浴場に成人女性ひとりで行くのは変なのだろうか、と思いながら目的地のホームへ降りた。同じ車両にいたカップルが窓際に立っていたので降りるのかな、と思っていたが降りないらしい。しなくても良いのに安堵する。外食やカラオケにひとりで行くことはこれまで何度もあったが、海は初めてのことなのでびびるのも仕方ない。

改札を抜けて、右手を見た瞬間思わず声が出た。殆ど雲のない晴天、太陽、潮風、波音、すべてに感動した。ひとしきり眺めたあと、コンビニでビールと麦茶、揚げ鶏を買って砂浜へ向かう。わたしに必要なことはひとりきりで海に行くことだった。ひとりで来なければ意味が無かった。暗くなる前に追加でもう二本酒を買う。波の模様や海の向こう、空のグラデーションは日が沈むにつれ色濃くなり、太陽のひかりに照らされていた海面が深い青に染まる。その光景は綺麗という言葉では言い表せられないくらい綺麗で、動画や写真を沢山撮った。波音を録音したりもした。駅前でスケボーを練習する高校生らしき男の子たちや、制服のまま座り込んでいるカップルも皆影絵のようになっている。一番星が光り、遠くで観覧車のライトが点いた。こうして海を見たときに思い出すひとたちがわたしには沢山居るのだ。リーガルリリーのハンシーの歌詞にもあるが、無意識下のしあわせは本当に無意識に守っているのだと思う。愛しているし、愛していた。手放して苦しむより守るために苦しみたいと思う。全てを理解することも受け容れることも出来ないし、出来ないということは決して悪いことではない。わたしはずっとわたしのままで、行き詰まったらまたひとりで海が見たい。

エッセイ「世界は救えないけど豚の角煮は作れる」の中に「カエル見に行かへん?」という話がある。著者、にゃんたこは虫が好きな子どもだったが、転校生のゆうちゃんがカエルに対して取った行動がトラウマとなり、それ以来虫で遊ぶことを辞めたという話だ。文中に「ある種の人間にとって、自分が他人につけられた傷よりも、自分が他人につけてしまった、もしくは、つけてしまうことになっていたであろう傷のほうが遥かに治りづらく、化膿しやすい傷なのではないかと。」とある。その「ある種」にわたしも該当するなあ、と思う。自分でぐしゃぐしゃにしてしまった花弁を、一生わすれずに向き合い生きつづけることしかわたしには出来ないのだ。わたしの最愛はよい眠りを願うことで、罪も、間違いも、すべてを抱えて居たいと思う。

平気な訳が無かった。強くも器用でもなかった。埋めることさえ出来なかった。帰りの電車ですこし泣いた。微かに潮の匂いがした。